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やさしさの不確定性原理

あなたは恋人や結婚相手にどんなことを求めるでしょうか?一般的なものとしては、男性ならかわいい、家庭的、愛嬌がある等々、女性ならかっこいい、頼りがいがある、誠実さ等々あたりかもしれません。今日は恋人・結婚相手に求める条件として、おもしろいことを言う人がいましたので、それについて書いてみます。

 

その人の言う条件とはこんなものです。

「人の見ていない所でも、人にやさしくできる人」

 

仮にこれを言った人をAさんとしましょう。これのどこがおもしろいかと言うと、「人の見ていない所」ということは、「Aさんも見ていない所」で人にやさしくしている人、ということになります。では、Aさんはどうやって、条件を満たす人を判断するのでしょうか?

 

ある人が「人の見ていない所でも、人にやさしくできる人」であることを知るためには、その人が「人の見ていない所で人にやさしくする」ところを観察する必要があります。Aさんが観察している状態で、やさしい行動をとる人がいたとしても、「人の見ていない所でも、人にやさしくできる人」かどうかはわかりません。しかし、観察しなければ、その人が「やさしい行動をとっていること」はわからないのです。ところが、観察を行った瞬間に、その人は「人の見ていない所でも、人にやさしくできる人」から、ただの「人にやさしくできる人」に変わってしまいます。これを「やさしさの不確定性原理」と呼びます。

 

これに対する反論はいくつか考えられるでしょう。「人の見ていない所でも、人にやさしくできる人」というのは、厳密には「人の見ていないと『その人物が考えている』所でも、人にやさしくできる人」という意味かもしれません。その場合、Aさんは、本人に気づかれないように観察することで、やさしい行動をとるかどうかを確認することができます。

また、「『本人』の見ていない所でも、その人に対してやさしくできる人」という解釈もあるでしょう。その場合も、Aさんは「Aさん以外の人に対してやさしくしている所」を観察することが可能です。

 

仮に上記のような解釈をしたとしても、まだ疑問は出てきます。「人が見ている所でのやさしさ」と「人が見ていない所でのやさしさ」。この2つにAさんにとって何の違いがあるのでしょうか?

一応、考えていることは何となくわかります。人が見ているところで優しくしている場合、「優しくすることで、その見返りを得られる」「優しい人に見られる」などメリットが得られます。そのような打算ではなく「本当に優しい人が好きだ」と言うことなのでしょう。

でも、私はこう思うのです。「人が見ていない所で行う優しい行動は本当に優しいから行っていると言えるのだろうか?」と。

 

例えば、私の場合、人にやさしくする理由の1つに「自分が優しい人間でありたいから」というものがあります。これは人からの見返りや評価こそ求めていませんが、所詮は自己満足のために人に優しくしているわけです。「他人のためを思って」というようなものではありません。これは「本当の優しさ」と言えるのでしょうか?

 

もう1つ思うことがあります。仮に人から見られているところでの優しさが「偽りの優しさ」だったとして、何か問題があるのでしょうか?

ここにBさんとCさんという2人の人物がいたとしましょう。Bさんは「本当に優しい人」で心から他人のために優しさを発揮します。(本当に優しいってなんぞ?という疑問もありますが、とりあえず置いておきます。)一方、Cさんは「打算を持って優しくしている人」で自らに利益があるから優しい行動をとります。

この2人が全く同じ状況(困っている人がいた等)に出会ったとしましょう。2人は「優しい行動をとる」という点では共通しているので、同じように優しい行動をとります。これを外部から観察したとき、すなわちAさん視点で見たとき、何の違いがあるのでしょうか?

他人のためを思って優しくしようが、打算で優しくしようが、世界に与える影響は全く同じものになります。違うのはBさんとCさんの心の状態のみです。しかし、Bさん、Cさんの心など、Aさんからすれば知りようがないわけです。だったらAさんにとって、2人はどっちも「優しい人」に見えるのではないでしょうか?

 

また、打算だとして何が悪かろうか、という思いもあります。上記で述べたように、やさしい行動によって世界に与えられる影響は「偽りの優しさ」も「本物の優しさ」も変わりません。他人にやさしくしてもらった時のことを想像してみましょう。大体の人は素直にありがたいなあ、と思うのではないでしょうか。嫌いな相手とかならわかりませんが、基本的には「この人は打算で優しくしているかもしれない」などと疑ったりすることは無いのではないかと思います。相手の心など知りようがないわけですから、優しさによって同じ恩恵が得られるなら、優しくされる人にとって「優しくしている人が本当に優しい人か」などどうでもよくないでしょうか?

「偽りの優しさ」とか「本物の優しさ」など考えるよりも、人にやさしくすることで世界が良くなるならそれでよかろう、と私は思います。

 

勘違いしないでいただきたいのは、別にAさんのことを批判する意図はありません。別に「どんな人が好きか」などというのは個人の好みの問題なので「本当に優しい人がいいんだ!」と思うならそれでも良いでしょう。好きにすればいいのです。ただ、少し不思議に思うというだけの話です。